【所信表明演説・・・我々は生体分子の水和クラスターの衝突反応を研究する・・・】
生体分子の分子内相互作用や水分子との相互作用について詳細に理解するためには、生体分子を孤立状態で研究することが重要である。我々は、孤立状態にある生体分子の水和クラスターと気体分子との衝突反応に関する研究を展開する。生体分子の水和クラスターは生体中から反応中心だけを切り出したものに相当する。そのため生体分子と水分子の協同的な挙動を、原子・分子1個1個のレベルで直接観測することができる。その結果、生体分子と水分子との協同的・組織的な相互作用、および生体反応の素過程に関する詳細な知見が得られると期待される。
研究の背景 我々はこれまでクラスタ−の反応について動力学的な研究を行ない、気相反応とも凝縮相の反応とも異なる、クラスタ−に特徴的な反応が進行することを明らかにしてきた。その反応の機構がクラスタ−の特異的な幾何構造や電子構造、あるいはクラスタ−内部の振動運動などと密接に関連していることを解明した。特にナトリウムクラスター、Na9+と希ガス原子との衝突反応では、衝突によってクラスター構造が変形し、非局在化した2個の価電子が対相互作用することによって反応が進行することが分かった。さらにアルミニウムクラスター、Aln+とAr原子との衝突反応について研究した結果、Al3+からAl8+の間で、クラスター内部の結合の様式が共有結合から金属結合へと遷移することが明らかとなった。一方、分子クラスターについては、典型的なRydbergラジカルであるNH4 にNH3が溶媒和したクラスター、NH4(NH3)nの電子スペクトルおよび電子励起状態の寿命を測定した。その結果、溶媒分子数nの増大に伴いRydberg電子が非局在化しNH4はクラスター中で自発的にイオン化していることが明らかとなった。一方、ポルフィリン・アミノ酸・ペプチド等の生体分子の水和クラスタ−の光解離反応では、水和分子数の増加に伴って生体分子の光分解が抑制されることが分かった。また、ヘム蛋白質であるシトクロムCの多電荷イオンのヘムを多光子励起し電子脱離を測定させて、孤立状態の蛋白質イオンの構造が完全に拡がっていることを明らかにした。
研究の目的 このように、我々がいままで行ってきた真空中の孤立状態におけるクラスターに関する研究によって、クラスターの構造と反応の過程に関する基本的な描像を確立し、小数多体系としてのクラスターの性質を詳細に理解することができた。一方、蛋白質などの生体分子もまた、クラスターと同様な小数多体系として捉えられる。よって、クラスターに関する研究と同様の実験手法を用いて、生体分子の構造と反応に関する研究を進めることができる。しかし、そのためには、液相中にある生体分子を非破壊的に真空中へ導入し孤立状態におくことが必要である。そこで我々は、エレクトロスプレーイオン化法(ESI)を用いて、生体分子を含む水分子の集合体である“クラスター”を生成させる。そして、気体分子との衝突反応に関する研究を行う。これらの水和クラスターは生体中・溶液中から反応中心だけを切り出したものに相当するため、生体反応のダイナミクスの決定因子となる生体分子と水との間の動的な多体効果を、原子・分子1個1個のレベルで直接観測できる。
研究の特色 蛋白質や核酸等の生体分子が集合して互いに強い相関を持って協同的・組織的に作用するときに、非加算的・複合的な現象として生命活動が発現される。特に、水和水が生体分子表面の極性原子団と特異的に水素結合してクラスターを形成することによって、生体分子の運動が制御されているはずである。生体分子は本来、生体中すなわち水溶液中で機能するものである。よって、水溶液中から真空中へ取り出して孤立状態にある生体分子は、本来の環境から相当にかけ離れたものである。しかしながら、生体分子の3次元的な構造と機能を司るところの、分子内相互作用や水分子との相互作用と反応との関わりについて詳細に理解するためには、生体分子を真空中の孤立状態で研究することが重要であると思われる。我々がいままで行ってきた真空中の孤立状態におけるクラスターに関する研究と同様の実験手法を用いて、溶液中にある生体分子の反応ダイナミクスに関する研究を進めることができると期待される。しかし、そのためには、液相中にある生体分子を非破壊的に真空中へ導入し孤立状態におくことが必要である。我々は、孤立状態の生体分子について、水和分子数・電荷数・内部温度等の諸条件を精密に制御する方法を確立する。そして、生体分子の水和クラスターイオンに関する、気体分子との衝突反応に関する研究を展開する。その結果、生体分子イオンと水分子との協同的・組織的な相互作用、および非加算的・複合的な現象である生体反応に関する詳細な知見が得られる。
当該研究の位置づけ 現在までのところ、液相中、生体中での蛋白質など生体高分子の物理的・化学的性質に関する研究が広範に行われている。しかし、液相中の蛋白質では周囲にある無数の水分子が溶媒和しており、それらの水分子との相互作用のために、生体分子の反応ダイナミクスを原子・分子1個1個のレベルから詳細に調べることを困難にしている。特に、蛋白質内の水素結合と疎水的相互作用に加え、周囲の水分子との動的な多体効果が重要であるが、その詳細については今なお解明されていない。最近の10年間で急速に確立されたESI法を用いることによって、溶液中にある不揮発性物質を非破壊的に真空中へ取り出すことが可能となった。近年、蛋白質イオンの真空中での移動度を測定した結果、孤立状態にある蛋白質の形状に関する知見が報告されている。しかしながら、孤立状態にある蛋白質の反応ダイナミクスに関する詳細な研究は未だ行われていない。また、ゲノム解析から存在が予測される多数の蛋白質の機能を明らかにするプロテオミクスの発展に関して、ESI法を用いた質量分析の手法が大きな役割を果たしている。そこでは蛋白質の1次構造を同定するために衝突誘起解離などの手法が用いられている。ところが実は、蛋白質等の生体分子の解離過程の機構は、真空中の孤立状態にある蛋白質の立体構造、および蛋白質の小数多体系としての性質に密接に関係しているはずである。そこで、プロテオミクスの発展のためにも、このような研究を緊急かつ集中的に展開する必要がある。