所信表明演説 vol.2
・・・生体分子の微視的な水和構造と反応に関する研究・・・
概要
蛋白質等の生体分子の協調的に連動して発現される機能について、反応素過程の視点から研究する。そのために、現在進行中である蛋白質イオンの衝突反応に関する研究を、さらに大きく発展させる。すなわち、エレクトロスプレーイオン化法を用いて、生体分子の水和クラスターを生成させる。これを真空中の孤立状態で気体分子と衝突させ、プロトン移動等の反応素過程を追跡し、生体分子間の相互作用や組織的・協同的な振舞いについての詳細な知見を得る。以上の研究を遂行するために、生体分子の水和クラスターの生成方法・内部温度制御・衝突反応に関する新しい実験方法を開発する。
研究の背景
生体中においては、様々な分子過程が組織的・連動的に作用することによって、機能が発現される。ところが、実際の生体中では他の生体分子に加えて無数の水分子が周囲にあり、それらの複雑な相互作用のために、生体分子の協調的な振る舞いを原子・分子1個1個から調べることは困難である。そこで、生体分子を真空中の孤立状態におき、そこに他の生体分子や水分子を1個ずつ付着させて、実際の生体系にある局所的な構造を段階的に再構築することが必要である。我々は二重質量分析・衝突反応装置を製作し、蛋白質等の生体分子を含む分子集合体(クラスタ?)の反応について動力学的な研究を行なってきた。まず、蛋白質イオンのプロトン移動の反応速度を測定し、プロトン移動反応が蛋白質の立体的な構造と深い関わりを持つことを明らかにした。特に、4個のジスルフィド結合を持ち、堅牢な構造を有するリゾチームにおいては、蛋白質内部にあるプロトンの反応速度が小さいのに対し、蛋白質外部に付着したプロトンでは反応速度が著しく大きくなることを見いだした。ところが、4個のジスルフィド結合を切断して構造を柔軟にすると、ポリペプチド鎖によるプロトンへの自己溶媒和の効果とプロトンどうしのクーロン反発力によって、プロトン数の増大に伴い、反応速度は緩やかに増加した。また、native構造においてα-ヘリックス含量の小さいcytochrome c では、α-ヘリックス含量の大きいhemoglobinαとβよりも著しく反応速度が大きくなった。以上のことから、孤立状態にある蛋白質イオンの構造は、native構造をある程度反映したものであることが明らかとなった。
また、これまで長年にわたって、本申請研究の申請者らはクラスタ?(数個から数十個の原子・分子の集合体)の生成方法と質量分析の手法や、気相中および液相中にあるクラスターの構造と反応について詳細な研究を行なってきた。その結果、気相中の孤立分子とも連続的な液体とも異なる、クラスタ?に特徴的な構造が存在すること、クラスターに特有の反応が進行することを明らかにしてきた。その反応の機構がクラスタ?の特異的な幾何構造や電子構造、あるいはクラスタ−内部の振動運動などと密接に関連していることを解明した。
特に、ナトリウムクラスター、Na9+と希ガス原子との衝突反応では、衝突によってクラスター構造が変形し、非局在化した2個の価電子が対相互作用することによって反応が進行することが分かった。さらにアルミニウムクラスター、Aln+とAr原子との衝突反応について研究した結果、Al3+からAl8+の間で、クラスター内部の結合の様式が共有結合から金属結合へと遷移することが明らかとなった。一方、分子クラスターについては、典型的なRydbergラジカルであるNH4 にNH3が溶媒和したクラスター、NH4(NH3)nの電子スペクトルおよび電子励起状態の寿命を測定した。その結果、溶媒分子数nの増大に伴いRydberg電子が非局在化しNH4はクラスター中で自発的にイオン化していることが明らかとなった。その結果、溶液中で起こる化学反応(電荷移動反応)の反応性が溶媒和クラスター中でどのように変化するかについて検討し、 孤立状態の反応物分子(溶質)に何個の溶媒分子を付加させると電荷移動反応が起こるのかを明らかにした。さらに、溶液中での電荷移動反応ダイナミクスを実時間観測することによって、溶液中とは異なる溶媒和クラスターに特徴的な化学反応を見いだした。一方、ポルフィリン・アミノ酸・ペプチド等の生体分子の水和クラスタ?の光解離反応では、水和分子数の増加に伴って生体分子の光分解が抑制されることが分かった。また、ヘム蛋白質であるcytochrome cの多電荷イオンのヘムを多光子励起し電子脱離を測定させて、孤立状態の蛋白質イオンの構造が完全に拡がっていることを明らかにした。その結果、孤立状態にあるcytochrome c等のヘム蛋白質では、立体的な配置と電荷分布が、光励起による電子移動反応を特徴づける決定的な因子となることを解明した。さらに、また、エレクトロスプレーイオン化法(ESI)を改良して、多数の水分子が水和した生体分子集合体の生成方法を開発した。そして、生体分子の持つ電荷の非局在性が、水和構造と密接に関係していることを明らかにした。 水和構造が生体分子の光誘起反応の機構と密接な関連があることが分かった。上記の基礎的な研究は、本申請者らが世界に先駆けて遂行してきたものである。
上記の研究は世界の数カ所で研究開発が進行しているが、本申請者らの研究はその中のひとつに含まれる。特に、生体分子の水和クラスターの光解離反応に関する研究や、極限的な状態にある蛋白質多電荷イオンの反応に関する研究は、本申請者らが世界に先駆けて遂行してきたものである。
本申請研究に関して、日本学術振興会日独科学協力事業共同研究(1999?2000年度)においてドイツ連邦共和国のI. V. Hertel教授らと、アルカリ金属原子の溶媒和クラスター内での溶存状態に関する共同研究を行った。 また2007年度には、フランス共和国のJ. P. Schermann教授らと生体分子の水和クラスターの赤外振動分光に関する共同研究を進めた。以上の研究によって、反応の機構が生体分子の集合体の特異的な幾何構造や電子構造、あるいは集合体内部の振動運動などと密接に関連していることを明らかにし、集合体の構造と反応の過程に関する基本的な描像を確立することができた。
研究の目的
孤立状態にある生体分子どうしのクラスター、および生体分子の水和クラスターと、気体分子との衝突反応に関する研究を展開する。生体分子クラスターは生体中から反応中心だけを切り出したものに相当する。そのため生体分子と水分子の協同的な挙動を、原子・分子1個1個のレベルで直接観測することができる。その結果、生体分子と水分子との協同的・組織的な相互作用、および生体反応の素過程に関する詳細な知見が得られると期待される。過去数年間に本申請研究の申請者らは、生体分子を含むクラスタ?の反応について動力学的な研究を行なってきた。その結果、蛋白質イオンと気相分子と間のプロトン移動の反応速度を測定し、プロトン移動反応が蛋白質の立体的な構造と深い関わりを持つことを明らかにした。また、エレクトロスプレーイオン化法(ESI)によって、生体分子イオンに多数の水分子が付着したクラスターを生成する方法を開発した。そして、アミノ酸・ペプチド等の生体分子の持つ電荷の非局在性が、水和水の立体的な構造と密接に関係していることを明らかにした。以上の研究によって、反応の機構が生体分子を含むクラスターの特異的な幾何構造や電子構造、あるいは集合体内部の振動運動などと密接に関連していることを明らかにし、生体分子イオンの構造と反応の過程に関する基本的な描像を確立することができた。本申請課題では、これらの研究成果を踏まえつつ、それらをさらに発展させるために、孤立状態の生体分子について、水和分子数・電荷数・内部温度等の諸条件を精密に制御する方法を確立する。そして、生体分子と水分子から構成されるクラスターに関する、気体分子との衝突反応に関する研究を展開する。すなわち、気相中の衝突反応による、プロトン移動の反応速度をひとつの指標として、生体分子の水和クラスターの構造と反応に関して研究する。その結果、生体分子の集団的な挙動を素過程に分解して理解する。一方、本共同研究を通して、我々の共同研究体制や共同教育体制を磐石なものとする。それにより、さらなる大型外部資金(JST CREST、NEDO、科研費基盤研究(A)、科研費新学術領域の立上げ、など)の獲得や、大学院教育(グローバルCOE、大学院GP、など)への還元も積極的な目標とする。
目標
前述の研究成果を踏まえつつ、それらをさらに発展させるために、以下のような研究を展開する。孤立状態の生体分子について、水和分子数・電荷数・内部温度等の諸条件を精密に制御する方法を確立する。そして、生体分子と水分子から構成されるクラスターに関する、気体分子との衝突反応に関する研究を展開する。すなわち、ESI法を改良して、アミノ酸・ペプチド・蛋白質等の生体分子に、数十個程度の水分子が水和したクラスターを生成させる。生成したクラスターを、交流電場を用いた冷却セルに導き、クラスターの内部温度を制御する。特定の質量・電荷数のクラスターを質量選別した後に、衝突反応セル中で、ピリジン・アルキルアミン等のプロトン親和力の大きな分子と低速で衝突させる。生体分子の水和クラスターと標的分子との衝突によって、クラスターと標的分子との間でプロトン移動などの反応が誘起される。その反応機構は、クラスター中にある生体分子の配置と立体構造に強く依存するはずである。これらの生体分子の集合体は生体中・溶液中から反応中心だけを切り出したものに相当するため、生体反応のダイナミクスの決定因子となる生体分子と水との間の動的な多体効果を、原子・分子1個1個のレベルで直接観測できると期待される。また、IR/UV hole-burning法等のレーザー分光の手法を用いて、真空中で孤立状態にある生体分子の水和クラスターの構造に関する詳細な知見を得る。さらに、温度効果・量子効果を考慮できるab initio経路積分分子動力学法を用いて、核酸・アミノ酸・ペプチド等の水和クラスターの構造を理論的に予測する。本申請課題によって得られる研究成果を基にして、蛋白質等の生体分子の3次元的な水和構造と機能とを、分子1個1個のレベルから決定する全く新しい分析方法が確立される。以上の理由から、生体分子どうしの相互作用に関する研究を、緊急かつ集中的に展開する必要がある。一方、本共同研究を通して、我々の共同研究体制や共同教育体制を磐石なものとする。それにより、さらなる大型外部資金(JST CREST、NEDO、科研費基盤研究(A)、科研費新学術領域の立上げ、など)の獲得や、大学院教育(グローバルCOE、大学院GP、など)への還元も積極的な目標とする。
新規性・独創性・革新性
液相中の蛋白質では周囲にある無数の水分子が溶媒和している。それらの水和分子と生体分子との相互作用が、生体分子の反応ダイナミクスを原子・分子1個1個のレベルから詳細に調べることが重要である。特に、蛋白質内の水素結合と疎水的相互作用に加え、周囲の水分子との動的な多体効果が重要である。本申請課題では、気相中の衝突反応による、プロトン移動の反応速度をひとつの指標として、生体分子の水和クラスターの構造と反応に関して研究する。これは、生体分子の集団的な挙動を素過程に分解して理解することを目指している。以上の研究の遂行によって、研究分担者によるレーザーを用いた分光学的な研究とも相補的な知見が得られるものと期待される。
ここでは、ESI法によって、アミノ酸・ペプチド・蛋白質等の生体分子のクラスターを生成させる新しい方法を開発する。これは、孤立状態にある生体分子系の構造とダイナミクスを解明する上で、大きなブレークスルーをもたらすものと期待される。すなわち、研究分担者とともに、本申請課題で得られたクラスターの生成方法を、レーザーを用いた分光学的な研究へ応用すれば、生体分子クラスターの大規模な水和構造に関する詳細な情報が得られる。また、生体分子クラスター内のプロトン移動に関する光励起ダイナミクスに関する情報が得られる。さらに、温度効果・量子効果を考慮できるab initio経路積分分子動力学法を用いて、核酸・アミノ酸・ペプチド等の水和クラスターの構造を理論的に確証する。それらは、実際の生体中で展開されている、複雑な生体分子の協調的な振る舞いを、微視的・分子論的に理解する上でも重要である。
蛋白質や核酸等の生体分子が集合して互いに強い相関を持って協同的・組織的に作用するときに、非加算的・複合的な現象として生命活動が発現される。特に、水和水が生体分子表面の極性原子団と特異的に水素結合して籠状の会合体を形成することによって、生体分子の運動が制御されているはずである。生体分子は本来、生体中すなわち水溶液中で機能するものである。よって、水溶液中から真空中へ取り出して孤立状態にある生体分子は、本来の環境から相当にかけ離れたものである。しかしながら、生体分子の3次元的な構造と機能を司るところの、分子内相互作用や水分子との相互作用と反応との関わりについて、詳細に理解するためには、生体分子を真空中の孤立状態で研究することが重要であると思われる。本申請者らが過去数年間に行ってきた真空中の孤立状態における生体分子の反応に関する研究をさらに発展させれば、生体分子の反応ダイナミクスに関する詳細な研究を進めることができると期待される。上記の研究の結果、生体分子イオンと水分子との協同的・組織的な相互作用、および非加算的・複合的な現象である生体反応に関する詳細な知見が得られる。例えば、実際の生体中において、蛋白質間のプロトン移動を仲立ちしていると予想されるところの、イミダゾール基・カルボキシル基等の親水基や親水基に緊密に結合している水分子等が、反応過程において果たす役割に関連して動力学的な知見が得られる。
従来の類似研究・技術との比較
現在までのところ、液相中、生体中での蛋白質などの物理的・化学的性質に関する研究が広範に行われている。しかしながら、液相中では周囲にある無数の水分子との相互作用が問題を複雑にしている。蛋白質内の水素結合と疎水的相互作用と水和分子との動的な多体効果については今なお解明されていない。ESI法は、最近の10年間で急速に確立された。現在、ESIイオン源を備えた多くの市販の質量分析装置がバイオテクノロジー等の分野で盛んに用いられている。しかしながら、蛋白質等の生体分子の協調的に連動する振舞いを分子1個1個のレベルから研究するためには、ESIイオン源を備えた多重質量分析装置を自作する必要がある。このESI法を用いることによって、生体分子の真空中での構造に関する研究が近年急激に盛んに行われている。例えば、M. T. Bowersらはアミノ酸・ペプチドの水和クラスター中にある水分子の水和エネルギーを測定した。 M. F. Jarroldらは孤立状態にある蛋白質イオンの移動度を測定し、立体構造に関する大まかな知見を得た。J. A. LooらはESI法による蛋白質複合体の生成の可能性について示唆した。しかしながら、孤立状態にある蛋白質の複合体の構造と反応に関する詳細な研究は未だ行われていない。また、ゲノム解析から存在が予測される多数の蛋白質の機能を明らかにするプロテオミクスの発展に関して、ESI法を用いた質量分析の手法が大きな役割を果たしている。そこでは蛋白質の1次構造を同定するために従来の衝突誘起解離の手法に加えて、電子付着解離・黒体輻射解離などの新しい手法が開発されている。ところが実は、蛋白質等の生体分子の複合体は、真空中の孤立状態にある蛋白質の立体構造、および生体中で隣接する蛋白質間の相互作用と密接に関係しているはずである。本申請課題では、生体分子の水和クラスターを真空中の孤立状態で気体分子と衝突させ、プロトン移動等の反応素過程を追跡し、生体分子間の相互作用や組織的・協同的な振舞いについての詳細な知見を得る。近い将来に、本申請課題はプロテオミクスの発展にも大いに貢献すると期待される。以上の理由から、生体分子どうしの相互作用に関する研究を、緊急かつ集中的に展開する必要がある。
今後の展望
以上の研究によって得られる研究成果を基にして、蛋白質等の生体分子の3次元的な水和構造と機能とを、分子1個1個のレベルから質量分析法によって決定する全く新しい分析方法が確立される。ここで開発された分析原理に基づいた新しい質量分析装置を企業との連携によって開発する。そのことによって、生体分子集合体を用いた新しい創薬・基礎的な医療への応用が期待できる。さらに、分子間の水素結合1個1個のレベルから、蛋白質等の生体分子の3次元的な水和構造を理論計算に精密に予測することが初めて可能となる。以上のような理由から、以上の研究を緊急かつ集中的に展開する必要がある。一方、本共同研究を通して、我々の共同研究体制や共同教育体制を磐石なものとする。それにより、さらなる大型外部資金(JST CREST、NEDO、科研費基盤研究(A)、科研費新学術領域の立上げ、など)の獲得や、大学院教育(グローバルCOE、大学院GP、など)へ還元する。
用語の説明
1. クラスター:構成粒子数が数個から数十個からなる原子・分子の集合体のことである。
参考となるURL:webラーニングプラザ・クラスターサイエンスコース
http://weblearningplaza.jst.go.jp/
2. エレクトロスプレーイオン化法(ESI):有機分子・生体分子を破壊することなくイオンとして真空中へ導入するためのソフトなイオン化法。ノーベル賞受賞者のJ. B. Fennによって開発された。注射針に高電圧を印加すると、先端から試料溶液が荷電液滴として噴出する。これを真空中へ導入することによって、生成した試料分子イオンを質量分析することができる。
3. 四重極質量分析計: 4本のロッドから構成される電極に数MHz程度の高周波と直流電圧を印加することによって、特定の質量を持つ荷電粒子を質量選別することができる。透過するイオンの運動エネルギーを小さくすることができる。操作が簡便なために様々な実験装置に組み込まれている。質量測定範囲が大きくなるほど、電極に高い電圧を印加することが必要になる。交流電圧の振幅を精密に制御する必要があるため、自作することは困難であるが可能である。
4. 飛行時間型質量分析計:加速電極からイオン検出器までの飛行時間を測定することによって、試料分子の質量を測定することができる。検出感度が高い。また、質量分解能が高く質量測定範囲が広いのが特長である。構造が比較的単純なため、自作することが可能である。
5. 衝突反応:真空中の孤立状態で試料イオンと標的分子とを衝突させることによって誘起される反応。試料イオンの分解、標的分子の試料イオンへの付着、試料イオンから標的分子への電荷移動などの反応過程が誘起される。