大腿骨骨折

わたしは正月に大怪我をして一ヶ月間入院していました。今回は、その顛末について、以下のようにお話しましょう。

 

わたしは例年どおりの年末年始を迎えていました。クリスマスの連休に横浜自宅の大掃除を一人でした後、12月28日頃につくばへ帰省し、つくばの家の大掃除をしていました。家中のカーテンを外して洗濯機で洗ったり、古い崩れかかった本棚を新しいものに買い換えたり、台所の流しの上にある吊り棚を買い換えたりしていました。

 

年が明けると妻とわたしの両親の家へ、家族で出かけました。1月2日に妻の実家を訪れました。翌日の1月3日にわたしの両親の家へ行きました。わたしの兄弟の家族も勢揃いで集まりました。母親が大量の御馳走を準備してありました。子供たちは久しぶりに集合したので、大騒ぎをしながら遊んでいました。そこで、あまりに騒々しいので「外で遊んできなさい」ということで、近所の公園に出かけました。子供の付き添いで、わたしや、わたしの父親や弟も出かけました。

 

公園では子供たちが、遊具に飛び乗ったり、飛び降りたりして跳ね回っていました。この公園は、かつて40年前に、わたしたちが子供の頃遊んだ、馴染み深いところでした。わたしも何気なく遊具に登って、1メートルくらいの高さのスロープを滑って降りました。いや、滑って降りるつもりでした。滑る途中で両脚がもつれたように記憶していますが、詳細は覚えていません。気がつくと土の地面にうつ伏せに倒れていました。右足に激痛を覚えました。なんとか立ち上がったものの、うまく歩くことができません。弟に支えられて、なんとか家に戻り、椅子に座りました。相変わらず痛かったのですが、おそらく捻挫でもしたのだろうとタカをくくっていました。それは、翌日の1月4日には職場になんとしても出勤したい、という強い願いが働いていたからでもありました。

 

しかし、ほとんど歩けないので、つくばへ帰宅する自家用車まで、弟たちに担いで運んでもらいました。つくばの家に着くと、エレベータの入口のすぐ前まで、自家用車を横付けしました。脚立に寄りかかりながら、やっとのことで家に入りました。布団に伏していると、痛みが増してきて、夜明け頃には激痛になりました。太股は内出血でパンパンに腫れてきました。トイレに行くにも、もはや這うことすらできないので、便器まで這い上がるのに苦労しました。

 

翌日、1月4日の朝になると、意識が遠くなるほどの激痛になっていました。とりあえず松葉杖を借りようと、妻が近所の町医者へ出かけました。医者に容態を話すと、松葉杖を貸してくれるどころか「すぐに救急車を呼んで入院しなさい」と一喝されました。

 

119番に電話して事情を話すとすぐに対応してくれました。遠くから救急車のサイレンの音が鳴り、だんだんこちらへ近づいてくるのが分かりました。救急隊員の方々は慣れた手つきで、激痛の右足にそっと触れながら、わたしを担架に乗せ、救急車へ運び込みました。

 

わたしの搬送された筑波の病院は、自宅から車で10分程度の近隣にありました。すぐに診察してもらえました。患部の右足太股のレントゲンを撮影されました。写真を見せながら、医師は「これは大腿骨が折れていますね。しばらく入院しなさい。明日の朝、手術をして、骨にボルトを打ち込みましょう。」と言いました。他にも詳しく説明されていたはずですが、激痛のため、はっきり覚えていませんでした。

 

5人部屋の病棟のベッドに案内されました。急いで職場を休暇にしてきた妻は、着替え、下着、お茶のペットボトルなどを自宅から持ってきて、ベッドの横の棚にしまいました。翌朝の手術に備えて食事は制限されました。

 

手術は全身麻酔で行われました。点滴によって麻酔薬を滴下されると、1分もしないうちに麻酔が効いてきて、再び目を覚ましたときには、手術は全て終わっていました。太股に触れると、チタン合金のボルトを打ち込むための2カ所の傷が縫合されていました。さきほどまでの、大腿骨の折れた部分が周囲の筋肉組織を突き刺していることによる激痛は無くなっていました。代わって、ボルトが大腿骨に打ち込まれたことによる鈍い違和感がありました。ただし、さきほどまでの激痛によって太股の筋肉は全て硬直しているため、右足を動かすことができませんでした。

 

血液の凝固による血管の梗塞を防ぐため、生理食塩水の点滴が続きました。その間、安静にしている必要がありました。怪我によるショックのため38℃まで発熱していました。屋外の寒い冬とは違って、整形外科病棟は暖房がよく効いているので、すぐに喉が渇きました。毎日、ペットボトルのお茶を1日に2リットルぐらい飲んでいました。妻が量販店でペットボトルのお茶を購入し、病棟まで届けてくれました。

 

手術の翌日、患部のレントゲン撮影をしました。すぐに担当の医師が写真を持って病棟に現れました。写真を見せながら説明していただきました。人間の骨は中身が中空になっています。大腿骨の中空の部分に1本目のボルトを打ち込み、もう一本のボルトは、股関節の丸い部分の中へネジ止めするように打ち込まれていました。「骨の折れた部分はぴったりと密着しているので、手術は成功です」ということでした。「この箇所は老人が転倒した際にしばしば骨折するところです。老人の骨は発泡スチロールのようになっているので折れやすいのです。しかし、骨が丈夫な若い人には珍しいです。ここが折れるとは、よほど強い力が働いたのかなあ。」とも言っていました。「手術によって、患部がしっかり付いているから今日から全体重を右足にかけても大丈夫です。しかし、骨折のショックのため、筋肉が収縮して固まっているから、実際には未だ歩けないでしょう。筋肉が固まらないように、すぐにリハビリを始めましょう。」

 

それから毎日1時間ほど、退院の日まで欠かすことなく、リハビリ室にて理学療法士の指導を受けながら、リハビリに励むことが日課となりました。ベッドから車椅子に乗り込んで、エレベータによって1階下にあるリハビリ室へ向かいました。太股の筋肉は収縮して固まっていました。初めは痛くて股関節を動かすことができませんでしたが、毎日リハビリを続けるうちに、徐々に動かせるようになっていきました。

 

職場の横浜市立大学には、わたしが怪我で入院していることを急いで連絡しました。わたしの担当している授業を全て休講とすること、わたしの受け持っている委員会に代理の教官を出席してもらうことなどを、電話でお願いしました。研究室において、1月以降に実行しようと計画していた実験的研究については、全て放棄せざるを得ませんでした。研究室の学生たちにも、わたしの怪我と入院について連絡しました、研究室に配属されている学生の卒業論文・修士論文の発表会が2月中旬にあります。学生の卒業論文・修士論文に関する指導だけは、他の教官に代わってもらうことはできません。2月中旬までには絶対に退院して職場に復帰したいと思いました。

 

リハビリが、わたしにとっての毎日の生活の唯一の目的となりました。他のことはいっさい考えません。ただ、自分の身体が毎日すこしずつ回復していくこと、右足がすこしずつスムーズに動くようになるのを実感することだけが、わたしの生き甲斐となりました。それは単純素朴な生き甲斐でした。そのことは、わたしにとって新鮮な発見でした。怪我をする以前の、現代社会における、矛盾に満ちた、複雑な利害の渦巻く、解決が困難な問題を複数抱えていたのとは、全く対照的でした。

 

自分自身がよろめきつつも立ち上がり、壁に寄りかかりながらつたい歩きを始め、やがて杖をついてよたよたしながら自由に歩行できるようなる、という過程を観察することは、あたかも10年以上も前に生後数ヶ月の我が子が辿った道のりを追体験しているようでした。わたしは自分自身を生後数ヶ月の幼児と同じような目で眺めて、微笑ましく感じました。

 

週末になると、家族・親族がお見舞いに来てくれました。入院している患者には単調な日々が続くので、誰かがお見舞いにくれると、とても嬉しく感じました。もしも、お見舞いの来訪者がいなかったならば、社会から取り残されたような気分になったと思います。入院中の食事は、とても簡素で低カロリーなものなので、見舞いの土産のお菓子などは、ことさらに美味しく感じられました。また、父親がわざわざCDプレーヤを買ってきてくれたので、音楽鑑賞によって長い時間を潰すことができました。下の娘は車椅子に特に興味を惹かれたらしく、わたしの代わりに廊下で乗って遊んでいました。さらに、大学の研究室の学生が2人ほどお見舞いに来てくれました。自家用車で首都圏を大横断してやってきました。混雑する首都高速を通って、往復5時間も運転し、帰宅が夜になったので、わたしのほうが、彼らを心配してしまいました。

 

病棟に入院している患者には、わたしのような40から60歳代の中年の他に、70歳以上の老年の方が多くいました。多くの中年の患者の方のもとへは、お見舞いの訪問者がしばしば来ました。しかし、多くの老年の患者のもとにお見舞いに訪れる人は希でした。お見舞いの来訪者がいない患者の方々は、社会から取り残されたように感じているかもしれません。

 

わたしは順調に回復し、入院から2週間後には、車椅子から歩行器を経て杖を用いて歩けるようになりました。病院内ならばどこへ行っても良いが屋外はダメ、という許可をもらったので、杖をつきつつ病院内を散策していました。病院内は暖房がよく効いていましたが、窓から眺める真冬の屋外は寒々としていました。毎朝、遠方に真っ白に雪を頂いた富士山が見えました。道を歩く人の吐く息が白く見えました。一方、午後5時頃になると、沈んでいく夕陽に映える富士山のシルエットが見えました。そんな窓の景色を眺めつつ、退院する日を心待ちにしていました。

 

担当の医師と相談した結果、1月29日に退院することになりました。しかし、医師は「退院後も当分の間、少なくとも2月中は、家族の世話を受けつつ自宅療養をしながら、週に一回は、この病院の外来に通院して欲しい」と言いました。しかし、わたしは2月中旬までには、横浜市立大学の職場に復帰しなくてはなりません。そのためには、2月上旬に横浜の自宅に移動しなくてはなりません。そのことを医師にお願いすると、「それならば仕方がないですね。ほんとうは、完治するまでわたしが診ていたかったのですが・・あなたは横浜市立大学にお勤めということなので、横浜市立大学病院に紹介状をしたためますから、必ずそちらの外来へ通院して下さい。そちらできちんとリハビリもおこなうように。また、横浜の自宅でも、家族の誰かと一緒に住んで、世話をしてもらいなさい。いずれにせよ、ゆっくりと治すように心がけて下さい。必ずもとのように治癒しますから。」と言われまして、医師から紹介状と患部のレントゲン写真をいただきました。

 

わたしは2月5日に妻の運転する自家用車に乗って、つくばの自宅から横浜の自宅へ移動しました。そして、2月6日から母親に横浜の自宅に一緒に住んでもらっています。朝と夕の食事をつくってもらっています。その他に、皿洗い、洗濯、食料品の買い物などの用事を全て、70歳をとうに過ぎた母親に依存しています。そんな生活をしながら、毎日、朝9時から夜7時頃まで大学で働いています。未だに右足は痛みます。杖をつきつつよたよたと歩くことしかできません。階段の上り下りが大変です。体力がひどく減退したので、夕暮れになるとげっそりと疲れてしまいます。それでも、今週は重要な職務を無事に終えることができました。非常にほっとしています。

 

 

横浜市立大学病院でのリハビリ

2月中旬より、毎週1回、横浜市立大学病院のリハビリ科に通院して、理学療法士によるマッサージと指導を受けています。股関節周囲の筋肉が、怪我のため収縮したまま動きが悪くなっているので、筋肉を解すための柔軟運動が必要なのだそうです。また、1ヶ月入院していた影響で足の筋肉全体が衰えているので、筋力トレーニングが必要なのだそうです。具体的には、股関節の柔軟体操と歩行訓練をしています。雨や雪が降らない日以外は原則として、自宅から大学まで2.5qを歩いて通勤しています。雨や雪が降る日は電車とバスに乗って行きます。ただし、大学での仕事が長引き、終わるのが夕刻になってしまい、帰り道の足元が暗くなる場合は電車とバスに乗って帰ります。

 

わたしは、筑波や横浜の病院の医師や理学療法士の方々には、「数ヶ月が経過すれば、貴方は次第に完治して以前と変わらない生活ができるようになります。焦らず気長にリハビリに励んで下さい。」と励まされてきました。

 

わたしは2月15日に修士論文発表会、18日に卒業論文発表会を無事に終えることができました。さらに2月末には大学の重要な行事に関する責務(詳細は申し上げられません。お察し下さい。)を無事に果たすことができました。このようにして、徐々に自分が職場復帰していくのを確認して、非常にほっとしています。ただし、自分の研究室における実験を未だに再開していません。実験は肉体労働なので、もうすこし回復を待たなくてはなりません。卒論発表会以降に研究室の学生たちを放り出していることに、自責の念を覚えます。3月末には学生たちに学会発表をさせなくてはなりません。また、4月になれば、学生実験・授業が始まります。それまでにもっと回復する必要があります。

 

 

この親不孝者!と言われても仕方ない?!

2月初旬から2月末まで母がわたしの看病のため、一緒に横浜の自宅に住んでくれました。3月第一週は、雑誌の編集の仕事があるために、一時自宅に戻りました。幸い仕事が片付いたそうなので、3月4日から再び横浜に来てくれます。

 

毎日夕刻、わたしが職場から疲れて帰宅すると、母が夕食の準備をして待っています。帰宅してすぐに夕食をとることができます。皿洗いもしてくれます。昼間に母が食料品を買いにいってくれます。洗濯も掃除もしてくれます。非常に有り難いです。

 

これまで、わたしは13年間単身赴任をしてきました。仕事を終え、深夜自宅に辿り着くと、まず玄関の鍵を開けて、暗く寒い部屋の照明や暖房のスイッチを押し、夕食を調理し、皿を洗い、洗濯をする、などという家事を自分ひとりでする必要がありました。母が家にいるときは大違いです。

 

「もし、妻が専業主婦だったならば、いつも、毎日このような生活が送れるのか・・・」とわたしが愚痴をこぼすと「それは貴方が選んだ人生なのだから、仕方のないことよ」とたしなめられました。「わたしが、たまたま今も元気だから、貴方を助けてあげられるのよ。今後、似たような怪我をしても、そのときまでわたしが元気だとは限らないよ。」全く仰せのとおりです。「親の愛は無限だからね。できるうちはいくらでも、息子の世話をやってあげるわよ。しかし、貴方はあまりに忙しすぎるわね。わたしが痴呆になっても、貴方には老人介護を期待しないよ。」わたしには、返す言葉がありません。

 

思い返せば、わたしは約10年おきに大怪我をしているようです。

20年前、28歳のとき、深夜、自転車に乗って帰宅途中に、路上で自動車にひかれました。背骨の第2、第3腰椎を圧迫骨折して、1ヶ月入院しました。

10年前には、肛門の周囲が化膿してしまう痔瘻という病気にかかったのでした。入院はしなかったのですが、胃腸科の病院に通院し、肛門周囲の膿を取り出して、数週間職場を休んで安静に過ごさざるを得なくなりました。

 

いずれの場合にも、両親に看病してもらっていました。わたしはいい歳をした大人なのに、何歳になっても実の親に面倒をかけるとは、70歳代の両親に申し訳ないです。本来ならば、わたしが親を看病するべき立場のはずなのですが・・看病をする方向が反対です。この親不孝者!と言われても仕方ありません。ただ、両親が未だに心身ともに元気であることは有り難いです。

 

 

恵みはわたしに対して十分である

10年おきに経験したいずれの大怪我の場合でも、怪我をする直前には、様々なプレッシャーを感じて、無理矢理に過剰なまでに働いていて、身体に疲労が溜まっていました。それが、一気に爆発して大怪我につながったように思われます。

 

様々なプレッシャーを感じていた、とはいうものの、今にして思い返せば、そのような悩みは小さい、些細なことだったのです。それに比べれば、自分の肉体が健康であることの方が、ずっと重要であることに気づくべきなのです。手足4本が満足に動くことが、どんなに大きな恵みであることに気づくべきなのです。今回のように怪我を経験する度に、改めてそのことに気づくことができます。そのような意味で、わたしが怪我を経験したことも、恩恵のひとつであるように思われます。

 

現在でも、リハビリが、わたしにとっての毎日の生活における主な目的となっています。もはや、回復の速度は緩やかになってしまいました。自分の身体が回復していくことを、毎日実感することはできません。相変わらず、左手に杖を持たないと身体が左右に揺れてしまうのでスムーズに歩けません。また、右足に体重をかける度に股関節に鈍い痛みが走ります。特に寒い日、冷たい雨や雪の降る日には痛みが酷くなります。

 

それでも、右足がすこしずつスムーズに動くようになるのを実感することは、今でも依然としてわたしの生き甲斐となっています。それは単純素朴な生き甲斐です。そのことは、わたしにとって新鮮に感じられます。それは、怪我をする以前に、様々な複雑な問題が、絶えず脳裏を巡っているのとは、全く対照的なのです。

 

日頃、わたしはいつも「今の自分には、○○○が足りない。さらに努力して獲得しなければならない。そうでなければ、△△△を失ってしまうかもしれない。」という漠然とした不安・焦りに駆り立てられていました。常に漠然とした欠乏感がありました。

 

しかし、「恵みはわたしに対して十分である」ということに気づくべきなのです。わたしは、この「恵みはわたしに対して十分である」という語句を、自分で見いだしたのではありません。ある書物の中で引用されていたので、覚えているだけなのです。今から25年前、学生時代に、数人の若者と一緒にある書物を輪読したことがあったのです。最近になって、なんとなく当時のことを想い出して、再びその書物を開いたところ、この語句を見つけることができました。「若い頃勉強して身につけたことは、貴方の一生の財産となるから、一生懸命勉強しなさい」と、わたしは日頃学生たちに言っているのですが、わたしが若い頃この書物を輪読したことは、まさにわたしの一生の財産となっているのかもしれません。

 

痴呆の高齢入院患者

わたしが1月いっぱい入院していた筑波の病院は、地域拠点病院に指定されているそうなので、病床に空きがある限り、たとえ痴呆の患者であっても、必ず受け入れる義務があるそうです。ただし、入院後数週間して病状が安定したら、随時退院してもらうことになっているようです。

 

筑波の病院に入院していた時に、病棟には、多数の70歳以上の高齢の入院患者を見ました。わたし自身をはじめ、多くの40〜50歳代の患者の方のもとへは、お見舞いの訪問者がしばしば来ました。また、多くの方からお見舞いと励ましの御言葉をいただきました。お見舞いの訪問者と会うことによって、わたしは自分が病院の外の世界と繋がっていることを実感することができました。

 

しかし、多くの老年の患者のもとにお見舞いに訪れる人は希でした。お見舞いの来訪者がいない入院患者の方々は、社会から取り残されたように感じているかもしれません。高齢者の骨折は治癒しにくい、とも聞いています。高齢患者の中には、単なる骨折だけではなく、痴呆を発症している方も見受けられました。骨折が引き金となって痴呆になってしまう場合もあるそうです。

 

ひとりの老婆の患者は、夜になると一晩中大声で、看護婦を呼んで叫んでいました。「オシッコがしたいのだよ。看護婦さん、お願いします。来て下さい。」しかし、10分おきに尿意が催されるはずはありません。ついに看護婦が来なくなると次には「足が痛いのだよ。看護婦さん、お願いします。来て下さい。」それでも来なくなると、ついには「火事だよ。部屋が真っ赤に燃えているよ。熱いよ。助けて!」これには看護婦もさすがに激怒して、この老婆の患者のもとへとんでいき、老婆を叱りつけていました。しかし、老婆の夜毎の叫びがこれで収まることもなく、わたしが退院する前の晩まで、毎晩聞かされました。幸いにして、病棟は男性と女性の病室に分かれていたので、この老婆の病室はわたしの部屋から遠かったので、わたしは眠ることができました。老婆の近隣の病室にいる女性患者の方々は、さぞかし眠りにくかったのでしょう。

 

この痴呆を発症した老婆の叫び声には、ある種の哀愁が感じられました。彼女に面会に来る家族はほとんどいません。ある日、息子さんらしき人が面会に来ました。看護婦が息子さんにそれとなく苦情を述べたようなのですが、息子さんは老婆に対して声を荒げていました。しばらくすると老婆に手を挙げたらしく、老婆の悲鳴が聞こえたので、慌てて看護婦が止めに入りました。

 

確かに、このような老婆を日頃看護している家族の方々の御苦労は、さぞかし大変なものだろうと思います。毎晩の叫び声のため、不眠に悩まされているかもしれません。痴呆を発症して、家族から愛情を注いでもらえなくなった老婆は孤立感を募らせ、ますます大声で助けを求めるようになったのでしょうか。それによって、ますます家族から疎んじられる、という悪循環が生じているのではないでしょうか。そのために、老婆の叫び声には、哀愁が感じられるのではないでしょうか。

 

他にも痴呆を発症した高齢の患者がいましたが、彼らは叫ぶどころか、いわば恍惚の状態で、顔に喜怒哀楽の表情もなく、ほとんど声を発することがありませんでした。自分で食事をとることもできず、看護婦にスプーンで食べ物を口まで運んでもらっていました。恍惚の患者でしたが、口の前まで食べ物が来ると、さすがに彼らは口を開けていました。

 

昼間、普通の患者の体温・血圧測定、点滴、血液検査などをおこなうため、看護婦が我々の病室にやって来るときに、しばしば痴呆の高齢患者を車椅子に乗せて連れまわしていました。あるいは、ナースステーションで会合を開いている間、痴呆の高齢患者をそばに座らせていました。なんらかの形で彼らをかまってやることによって、幾分ですが、彼らは満ち足りた表情を浮かべているように思われます。夜毎に叫ぶ、例の老婆の患者も静かに座っています。彼らには、単に骨折の治療だけではなく、心のケアが重要であるようです。孤立感を与えないように配慮する必要があるのです。しかしながら、高齢患者が、看護婦に優しく接してもらえるのも、数週間の入院中だけです。退院したら自宅に戻り、家族が面倒を看なければなりません。

 

痴呆の患者の中には、わたしの両親と同年輩の方も数多くいました。わたしの祖父母にはたまたま痴呆を発症したものがいなかったので、いままで、それがどんなものなのか知りませんでした。わたしはつくづく、わたしの両親が、今のところ、元気なことを有り難いと思いますが、将来のことは誰にも分かりません。しかし、「明日を思い煩う事なかれ。今日の苦労は、今日一日で十分である」ということではないのでしょうか。

 

 

東日本大震災当日

 3月11日はもはや数ヶ月前のことになりましたが、未だにその日を忘れることができません。それは、わたしは大腿骨骨折のリハビリを続けつつ、杖をついてよたよた歩きながら、大学の仕事にも徐々に復帰しかけていた時の出来事でした。自分の身体がゆっくりと回復していくのを有り難く感じていた矢先のことでした。3月初旬から、研究室の装置を動かして実験を再開しようとしていました。それは金曜日の午後でした。その日の夕方には、足の怪我の後で初めて、久しぶりにつくばへ電車に乗って帰省する予定でいました。わたしは大学の居室でパソコンに向かって書類を作っていました。突然、ゆったりとした周期の揺れを感じました。初めは小さな揺れでしたが、次第に振幅が増大していきました。突然、電気が止まり、目の前のパソコンの画面が暗くなりました。部屋の照明も消えました。大学全体が停電したのです。ついに校舎が大きく揺れ始めましたので、机の下に潜り込みました。

 

 本震の揺れが収まると、すぐに実験室へ向かいました。照明が消えて薄暗い中で、手探りで実験装置を停止させました。次に暗い廊下を歩いて、共同利用施設の実験室へ向かい、共同の装置をも停止させました。突然の停電のため、装置はダメージを受けたかもしれないことが心配でしたが、幸いにして無事であることが後日確認できました。

 

 校舎の玄関へ出ると、大勢の教官や大学院生が集まっていました。ときどき、大きな余震が襲ってきて、校舎が揺れるのが見て取れました。皆でぞろぞろと屋外に出て、グランドに向かいました。地面の上に立っていると、本震から1時間以上も経過しているというのに、相変わらずゆったりした揺れの余震が続きました。風がないのに街路樹の枝葉が大きく揺さぶられていました。地鳴りの低いにぶい音が響いていました。それは海上を航行する船舶の甲板の上に立っているような感触でした。自分が目眩を感じているようにも感じられました。

 

 大学にいる全ての教官・学生・事務員がグランドに集合していました。やがて、次第に夕刻となり太陽が傾いて薄暗くなってきたので、この日はこれにて解散となりました。停電は広い範囲に及んでいました。首都圏の電車は全て不通になっていました。電車で通勤している教官や学生は帰宅の手段がなく、途方に暮れていました。周囲の教官の方々に、今晩はわたしの家に来れば、数人までならば泊まれると提案しましたが、辞退されました。もしも大地震があと数時間遅く起こっていたら、わたし自身もおそらく都心の某所で帰宅難民になっていたことでしょう。

 

停電のため、固定電話も携帯電話も通じませんでした。つくばの家族がどうなったのか心配でした。妻へ携帯メールを幾度となく送信しましたが、返信はありませんでした。同様に、両親や兄弟にも携帯メールを送信しましたが、返信がないので不安でした。電池の充電のできないことに気づき、メール送信をやり過ぎて、携帯電話の電池が切れないかすこし心配でした。

 

幸いにして、わたしの横浜の家は大学から程遠くないところにありました。わたしは、つくばの妻子のもとへ帰ることを諦め、横浜の家に戻りました。信号が全て消えていたので、主要な道路は大混乱になっていました。ところどころの交差点に警官が立って交通整理をしていましたが、とても人数がたりないようでした。

 

 混乱する国道を渡り、自宅に辿り着いた時には夕闇が迫っていました。付近のスーパーは全て閉まっていたので食料品を買うことはできませんでした。幸いにして、冷蔵庫に数日分の食べ物と飲み物があったのを見つけて安心しました。押し入れから古いラジオを掘り出して、乾電池をいれてニュースを聴き続け、ようやくどんな事態になったのか徐々に理解しました。夜が更けた頃、妻や親兄弟から携帯メールが届いて、家族全員の無事が確認されたのでほっとしました。つくばは横浜よりも震源地に近いため、揺れがずっと激しかったことを知り、改めて驚きました。

 

 ラジオに耳を傾ける以外にすることがないので、部屋の中でじっと座っていると、深夜になって電気が復旧し、突然に部屋が明るくなりました。家に電気のあることの有難味をしみじみ感じました。

 

 

大震災から数日後

 通常どおりに毎日職場の大学には出勤したものの、電力量が逼迫しているという当局からのお達しで、実験装置を動かすことを禁じられていました。研究室の学生の携帯にメールを送信し、全員の安否を確認して、ひとまずほっとしました。彼らに、当分の間自宅待機するように、携帯にメールを送信して伝えました。パソコンを開いて地震速報のページを開きっぱなしにしていました。茨城県付近を震源とする大きな余震が頻発していることを知り、驚きました。つくばの家族のもとへ戻りたかったのですが、未だに不通になっている電車の路線も多く、杖をついてよたよたしか歩けない身体なので、戻るのを断念せざるを得ませんでした。

 

 原発事故のニュースには驚きました。特に3月12日の水素爆発で放射能が周囲に拡散したと聞いたときには、つくばが原発から遠くない距離にあるため、子供たちが心配になりました。Webページを開いて、日本各地の放射線量測定値のページを開きっぱなしにしていました。天気予報のページを開いて、原発からつくばへ北風が吹かないように、つくばに放射能を含んだ雨が降らないように祈りました。ほんとうは、教科書を読んだり、論文を執筆したりして勉強していれば、まだしも有益な時間を過ごすことができたのかもしれませんが、ほとんど何も手につかず、悶々とした日々を過ごしていました。

 

 地震・津波の被災地の模様を報道するテレビニュースの映像は目を覆うばかりでした。あまりにも迫力のある映像には圧倒されました。無数の人々が亡くなったことを聞くのは辛く感じました。これ以上の惨状を見たくないとはいえ、代わりに娯楽番組を見たいとは思いませんでした。結局のところ、自宅にいるときは、なにをするでもなく、ただ呆然とニュースの映像を眺めては溜息をついていました。この未曾有の大惨事を前にしては、わたしの怪我(大腿骨骨折)などは、とても小さなことのように感じられました。寒い日々が続いていましたが、極力部屋の暖房を使わないように心がけました。雪の降る避難所で凍える被災地の惨状が、テレビ画面に映し出される度に、暖かい部屋でテレビを漫然と見ている自分が申し訳なく思われました。

 

 

久しぶりにつくばへ帰省

3月23日、久しぶりにつくばへ帰省しました。長く帰省していなかったので、とても懐かしく感じられました。子供たちから、地震のときの様子を聞きました。そのときは授業中だったので、生徒全員が自分の机の下に潜りました。両腕で机の脚に捉まっていると、大きな揺れのために机もろとも床を滑っていました。大きな地鳴りがしました。恐怖のあまりしくしく泣いている生徒もいました。「でも、わたしは泣かなかったのよ」だそうです。本震の後、頻繁に震度5もある余震に襲われました。自宅では、緊急地震速報を聞いて、数秒後の地震の来襲に備えるために、絶えずテレビをつけていました。激しい余震は深夜の就寝中にも襲来しまして、そのたびに目を覚めさせられました。次女はそのためにすこし神経質になり、体調を崩したそうです。

 

つくばの自宅のマンションの建物は、幸いにして大きな被害はありませんでした。日頃から、つくばには震度3程度の地震があるために、箪笥・本棚・冷蔵庫などの家具に耐震工具を付けておきました。そのため、地震で家具が倒壊することはなかったようです。こんな工具がまさかほんとうに役に立つとは思いにもよりませんでした。また、長く断水が続きました。幸いにして、クローゼットの中にペットボトルのお茶を数箱ほど備蓄してあったので、飲料水に困ることはなかったそうです。それでも、小学校に来る給水車までポリタンクを担いで生活用水をもらいに何度も行ったようです。

 

幸いにして、子供たちの通学する学校の校舎には大きな被害はありませんでした。ただし、つくば市の給食センターが被害を受けたため、学校給食が停止され、子供に毎朝お弁当を持たせる必要が生じました。毎朝早起きしてお弁当を作る手間が増えたと、妻が不満を漏らしていました。

 

妻の職場の施設の中には大きな被害を受け、職務に支障が生じたところもあったようです。また、先日つくばのスーパーで友人にばったり会いましたが、電気を止められて何も仕事ができないので困った、とこぼしていました。

 

春の草花が咲き乱れ、麗らかな日差しが照り注いでいるので、通常は近隣の公園に子供の遊ぶ声が満ちているはずですが、今年は人っ子ひとりいませんでした。眺める人のいない公園に、満開の桜だけがぽつんと立っていました。

 

子供たちのクラスメートの中には、遠方にある祖父母の実家へ、数ヶ月間避難してしまった子もいるそうです。我が家では、子供をつくばから避難させるつもりはありません。いつもどおりの生活を子供たちにおくらせました。特に、長女は中学3年生なので、高校受験を控えています。勉強させねばなりません。ただし、特に雨の降る日には子供の外出を控えさせました。

 

毎日webページを開いて各地の放射線量をチェックしていました。そして、原発事故とその直後の降雨によって、一時は急増した放射線量が、数日間のオーダーで徐々に減衰していくのを確認して、安心していました。放射能は恐ろしいものですが、不確かな風評に惑わされず、冷静に対処することが重要なようです。

 

 

大震災から数週間後

 大学では3月末に卒業式、4月初旬に入学式を行いましたが、時勢を考慮して、謝恩会などのパーティは自粛していっさい行いませんでした。実験に関しては、電力量を節約するように頻繁に通達が来ました。有り難いことに、横浜市立大学のある地域は計画停電が行われませんでした。計画停電がなかったのは有り難いのですが、申し訳なくも感じます。大学では通常どおりに新学期を始めました。わたしは、講義や学生実験を準備するために、もはや悶々と暮らしてはいけなくなりました。

 

怪我の後、横浜に戻って以来、横浜市立大学病院のリハビリ科には毎週のように律儀に通院しました。理学療法士から出されたトレーニングの宿題を毎晩自宅の畳の上でこつこつと実行しました。震災後、ろくな仕事をせずに悶々と過ごしてしまったわたしではありましたが、気づかぬうちに大腿骨周囲の筋肉は順調に回復し、いつの間にか杖を使わずに歩けるようになっていきました。4月26日に、担当医師に「だいぶ回復しましたね。貴方はもう来なくていいでしょう」と言われて、リハビリに関する最後の通院を終えました。走ったり、跳んだりすることは未だに無理のようです。依然として大腿骨周囲に鈍い痛みは残っていますが、とりあえず普通の生活はできるようになりました。

 

わたしは、自分の体験した怪我が天から賜った恩恵である、と感じていました。今回、大震災を経験するに及んで、ますます強くそのように確信しました。というよりも、大震災という事象があまりにも大きいので、自分の怪我などが取るに足らないもののように思われました。