【昨今の大学教育について思うこと】

・・・自然淘汰か観音菩薩か・・・

1.学会の懇親会にて

先日、ある学会の懇親会等で全国の大学教官をしている友人・知人たちと、ビールを片手に持ちながら最近の大学教育と大学生について議論する(愚痴を言い合う)機会がありました。その中で、わたしと同年輩の甚だ口の悪い友人が言うには「最近の傾向として、伸びきったパンツのゴム・ガラスのキャピラリー・パブロフの犬のような大学生の割合が増えている」のだそうです。ずいぶんと口の悪いひどい表現ではありますが、それは酒が彼のお腹にちょっと?入っていたからということで、お許しいただきましょう。そのときの会話の内容を基にして、昨今の大学教育について皆で話し合ったことを以下に記しました。


2.伸びきったパンツのゴム

わたしは不精者でけちんぼであるために、着古しておんぼろになった下着を捨てずにおいてあります。(もちろん毎日下着は交換します。ずぼらですが不潔ではありません。)仕事が忙しくて下着を洗濯する暇がない時に、箪笥にしまってある比較的新しい下着を全部使ってしまい、仕方なく着古してゴムがゆるゆるになったパンツをはきます。そのとき無理な力を入れて、老化して伸びきっているゴムをぷつんと切ってしまうことがあります。老化して伸びきっているゴムは弾力性がないので引っ張っても伸びません。といって無理に引っ張ると簡単に切れてしまいます。

例の口の悪い友人が言うには、「その学生は、伸びきったパンツのゴムと同様に、精神的な弾力性・柔軟性がないので、どんなに懇切丁寧に指導しても成長しない。といって無理に引っ張ると簡単に”キレル”」というのです。”キレル”といっても暴力を奮うという意味ではなく、意欲が萎えてしまう、無気力状態に陥る、自宅にひきこもり大学に来なくなる等のことを指すようです。

その友人によれば、学生実験で指導する際に、ある学生の学習態度が良くなかったので、一回少し語調を荒げて注意したのだそうです。すると、学生は「深く心に傷を受けた」ということが引き金となってキレテしまったというのです。しかし、学生は反省することはありませんでした。自分がなぜ注意されたのか、どうすれば改善することができるのか、について考えることはありませんでした。単に心に傷を負った、被害者意識を持っただけなのです。いったんキレテしまった学生の心が回復することは困難です。それは、あたかも老化して伸びきっているパンツのゴムがぷつんと切れてしまったかのようです。

老化して伸びきって切れてしまったパンツのゴムならば、とっととゴミ箱に捨てて新しいゴムと交換すればよろしいのでしょう。(というより、さっさとパンツそのものを捨てた方がよい。)しかし、伸びきって切れたものが人間である場合には捨てるわけにはいきません。おそらくこの学生は、語調を荒げて注意されることが生まれて初めての経験であるようなので、まず注意されたことに驚いてしまったのでしょう。生まれてから大学に入学するまで、家庭においても学校においても他人に大声で叱られた経験が無かったのではないでしょうか。


3.ガラスのキャピラリー

有機化学の実験でガラスのキャピラリー(細管)を一般的に用います。 キャピラリーは1000単位で購入しまして、少量の試料溶液を採取するために実験中は頻繁に使用します。使った後はゴミ箱に捨てます。 いわば使い捨ての器具です。 例の切れてしまった学生とは、このガラスのキャピラリーのようなものに例えられるかもしれません。 剛直で柔軟性はないばかりか、無理に曲げようとすると簡単に切断してしまいまして、二度と再生することはないのです。 キャピラリーならばゴミ箱に捨てれば良いのですが、人間の場合はそうはいきません。 やむなくガスバーナーを用いて、折れたキャピラリーを再生しようと試みると、先端から溶けてしまうので、たいていの場合はうまくいきません。それでも無理に続けると指に火傷するか、ガラスの尖った先端で切り傷を負ってしまいます。 同様に、切れてしまった学生を無理に矯正しようとしてもうまくいきません。また、先輩の大学院生に頼んで、切れてしまった学生を励まそうとすると、先輩の大学院生に大きな負担となってしまい、大学院生まで倒れてしまい、不登校になったらしいのです。 切れてしまった学生の分まで、研究室の運営に関して、健全な学生に余計な負担をお願いしていたそうなのです。 この切れてしまうという病気は、細菌やウイルスによる伝染病ではありませんが、明らかに周囲の学生の精神に影響を与えて、ドミノ倒しのように、学生間に伝染していく傾向があるようです。

学生が切れてしまうという現象は雪崩のようなものではないでしょうか。 高い急峻な山の斜面に雪が分厚く降り積もっています。 尾根に雪庇が張り出しています。 雪庇が崩れて小さな雪の塊が尾根から転げ落ちます。 初めは小さな塊なのですが、急斜面を転がるうちに多くの雪を巻き込み、やがては斜面全体を覆うような雪崩に発展します。 同様に、学生が切れてしまうきっかけは些細なことのようです。 教官に叱られた、期末試験に失敗した、クラスメートにいじめられた、などです。 普通ならば、数日のうちにいやな不快な気分は徐々に薄れていきますが、 彼らの場合はそうではありません。 きっかけは些細な事象であっても、心の中で鬱状態がどんどん増殖するのです。 よって、きっかけが何であるのかは問題ではありません。 問題なのは、それをきっかけとして、心の鬱がどんどん大きくなるような素地があることなのです。 自分の心が鬱状態であること自体が、鬱状態を加速する原因になっているのです。

切れてしまった学生には、もともと親しい友人がいません。 クラスメートに授業のノートをコピーさせてもらうこともできないようです。 学生実験のレポートを作成するのも、学生相互で相談し合って行えば楽なのですが、切れてしまった学生にはそれもできないのです。 友人のレポートのデッドコピーを作成したり、 授業の出席表に自分の代わりに友人に名前を書いてもらったりすることもありません。 (もっとも、教官であるわたしとしては、いんちきレポートやいんちき出席表を厳重に取り締まらなくてはいけないのであります!!! 最近はレポートや出席表のいんちきが減ったので、取り締まりが楽にはなりましたが・・・)

そもそも、一般的に、現代の大学生においては、人間関係が希薄なのです。 両親や兄弟などの家族との交流も希薄なようです。 自分以外の他人に対して関心・興味がありません。 そもそも自分自身に対しても関心がないのかもしれません。 始終、携帯で友人とメイルを交換していても、表層的な会話にとどまっているようです。 互いに心を開いて話し合っているわけではないのです。 わたしが大学生だった数十年前に比べると、サークル活動もそれほど盛んではないようです。 約半数の大学生は授業が終わると部室に行くこともなく、まっすぐ自宅に帰るようです。 (わたしが大学生だった頃には、大学までは来たものの、授業が開かれている教室へはついぞ入らず、 部室で半日過ごして、週末の部活動の相談をして、夕方から部員たちと居酒屋で飲んで帰宅した・・・ などという情けない日々もありましたっけ。 全く誉められたものではありませんが・・・)

当然のことながら、彼らは大学教官とも濃厚な人間関係を結ぶことを好みません。 無理に彼らのプライベートな部分に立ち入ろうとするのは禁物です。 急かすこと、励ますことは禁物です。 「もっと頑張りなさい」などと言ってはいけません。 彼らに対しては、ガラスのキャピラリーに触るように接していかなければなりません。 彼らの苦しい胸の内を理解するように努めなければなりません。 (もっとも、理解するように努めると言いましても、 「あなたは物質的には何不自由なく育ってきて、何を今更苦しんでいるのだ! あなたの不調のためにあなたの周囲の人間がどれほど心配していることか! あなたは他人には関心を払わないのならば、それにも気づくことはないのか!」 と思うと悲しくなることは否めませんが・・・まあそれは言わないことにして・・・) 教官としてできることといえば、せいぜい遠方から彼らを眺めることぐらいでしょうか。 「わたしはあなたを眺めている、あなたに関心がある、あなたを心配に思っている」という態度をとり続けることぐらいでしょうか。 気長に構えなくてはなりません。彼らが回復するのには年月がかかるのです。

テレビニュース等で「ひきこもり」「ニート」等が最近急増しているとの報道が多く見受けられます。キレテしまった学生が「ひきこもり」「ニート」の予備軍にならないように切に願っています。

その友人は、つい語調を荒げてしまったことについては反省していました。自分自身の指導力のなさに責任を感じていました。この学生を指導する上で失敗点・改善点を指摘するのが困難であることには頭を抱えていました。


4.パブロフの犬

「パブロフの犬」とは条件反射のことを意味します。生物学者のパブロフは実験室で犬を飼っていました。毎日犬に餌を与える際に必ずベルを鳴らしました。数ヶ月間これを続けた後に、犬に餌を与えずにベルを鳴らすと、犬は餌がないのにもかかわらず口から唾液を垂らした、ということです。これを条件反射といいます。

例の口の悪い友人が言うには「最近の大学生には、パブロフの犬と同様な条件反射による応答しかできない者が多くなった」のだそうです。

最近、大学入試問題に回答欄の穴を埋めるような問題が多いことが、問題となってきました。なぜなら、このような入試問題は受験生に論理的な思考力よりも反射神経を要求しているようなものだからです。

高校で習う理科の中で、物理学は最も論理的な思考力が要求されるものです。ところが、ある学生が言うには、「物理学は暗記科目にはならない。大学入試では良い点が取れず不利になる。入試科目で物理学を選択しないほうが有利である」と高校の先生から受験指導を受けたのだそうです。さらに「高校では物理学の授業は選択科目とされていたために授業を受けたことがまったくなかった」と言っている学生さえいます。残念ながら、わたしはきちんと調査したことがないので、彼らの言うことがどこまで真実かどうかは定かではありません。(もし詳しい情報をお持ちの方がいれば教えて下さい。)しかしながら、かなりの人数の大学生が高校物理をほとんど理解していないこと、論理的な思考力を修得していないことは明らかです。(そこで、本学では大学に入学してから高校物理に関する補講を開くことが試みられています。)

よって、例の口の悪い友人が言うには「大多数の学生たちは大学での授業や実験において、条件反射のみで処理できるような作業しかできない」のだそうです。つまり、学期末試験では大学入試の暗記科目のような穴埋め問題、実験では全自動の装置でボタンひとつで操作できるような作業しかできない、というのです。それは、学生たちは日頃から論理的な思考力ではなく反射神経のみを使うことに終始しているからです。よって大学での授業や実験において論理的な思考力を学生たちに要求する機会があると、それは彼らにとって未知の体験であるのです。

確かに、コンピュータ制御の全自動の実験装置は便利で効率的なものです。その存在自体を否定するつもりはありません。むしろその逆に、実験の効率化は学問研究の進展に欠かせない重要なファクターだと思います。ただし、学生にとって実験装置全体がブラックボックスとなってしまい、学生が装置の動作原理も構造も理解することなく、条件反射による応答のような操作のみで、実験を終えてしまうことに問題があるのです。

最近の家電製品は便利になりまして、ボタンひとつで何でも操作ができるようになりました。便利なことは良いのですが、人間が手足を動かさなくなったのは問題かもしれません。単に運動不足になって不健康なだけでなく、手足を動かすことによって、脳が活性化されるからです。

また、テレビゲームのような玩具が巷に氾濫しています。これらはいずれも反射神経のみを使うものです。心がキレテしまったために大学に来なくなった学生が、自宅にひき籠もって昼夜を問わず延々とゲームに没頭する姿は想像するだけで痛々しいものです。ゲームの中で旗色が悪い時には、リセットボタンを押せば再び最初からやり直すことができます。しかしながら、人生にはリセットボタンはありません。一度失った人生の時間は二度と戻ってこないのです。長い年月も自宅にひき籠もってゲームに浸る学生が、自らの青年時代の貴重な時間を無為に費やしているのには心が痛みます。


5.自然淘汰か観音菩薩か

上記に長々とダメ学生に関する愚痴を述べてきました。しかし、その一方で卓越した論理的な思考力を持ち、物理学をはじめ多くの学問に造詣の深い学生も多数おります。教官が語調を荒げる前に指摘された誤りを即座に修正できるような、人格的にも優れている学生が少なからずおります。つまり全体の傾向として、大学生の資質が多様化・二極化しているのです。「全ての学生に対してある一定のレベルの教育を一様に施す」という今日の学校教育の原則は放棄せざるを得ないのかもしれません。優秀な学生とダメな学生とを明確に区分けして、優秀な学生にはどんどん高度な教育を施し、ダメな学生はどんどん排除していく、つまり中途退学していただく、という方針に転換せざるを得ないのかもしれません。つまり、ダーウィンの進化論にある自然淘汰、適者生存の原理を大学養育にも適用しよう、というわけです。

確かに、我々大学教官は、優秀な学生と一致協力して研究を進めれば業績は格段にあがります。授業においても優秀な学生を対象として講義することが有意義と感じます。よって大学教官は、自分の授業を多数の優秀な学生が履修すること、自分の研究室に優秀な学生が配属されることを切に願っています。できることならば、問題を抱えた学生を自分の周囲から排除したいと暗に思っているのかもしれません。残念ながら、悲しくも恥ずかしいことに、これが大学教官の偽らざる本音です。キレテいる学生や条件反射のみの学生と接するのが好きな教官はあまりいないかもしれません。よって、そのような問題を抱えた学生にとって、大学はあまり楽しいところではないかもしれません。

しかし、大学を卒業して社会に一歩足を踏み出せば、そこには学生時代よりもずっと厳しい自然淘汰の現実が待っています。優秀な学生の就職先は引く手あまたでしょうが、キレテいる学生や条件反射のみの学生には、まともな就職先は無いでしょう。企業では、問題を抱えた学生は悉く排除して、気力の充実した優秀な学生だけをより分けて採用しています。企業の人事部の方々の観察眼の鋭さにはいつも感心させられます。キレテしまった人間にとって、生存競争中心の今後の日本社会は地獄です。終身雇用制も崩れた今後の日本社会では、個人間の生存競争はますます激化し、貧富の差はますます大きくなります。社会保障に関する予算も削減の一途です。今後の社会で信頼できるものはもはや自分自身の実力しかありません。たとえ就職先の会社が倒産しても、個人としての自分は生き残るつもりでいなくてはなりません。そこで人生の生存競争を生き貫くために、学生諸君には大学時代にたっぷり実力を蓄えていただきたいものです。

しかしながら、優秀な学生もダメな学生も人間としての尊厳には変わりがありません。大学教官にとって全ての学生は等しく社会からお預かりしている存在であります。教官にとって全ての学生は等しく指導する対象であります。「丈夫な人に医者はいらない。医者は病人にこそ必要である」とあります。優秀な学生は放置していても自然に成長していきます。問題を抱えている学生にこそ教師が必要なのでしょう。両手に水掻きのついている観音菩薩のように、沈没寸前の学生全てを漏らさず救いの手を差し延べることにこそ、教師としての存在意義があるのでしょう。ところが、どのようにしたら救済することができるのかが簡単には分かりません。キレテいる学生とは、治療法不明の難病をわずらう重症患者です。自然淘汰か観音菩薩か、その辺がなかなか難しいところです。


6.結語

もし次の時代を担う若い世代がダメになってしまうならば、我々の社会活動は全て無意味なものとなります。わたしは学問的な基礎研究に精励してきましたが、次の世代の人々がこの研究を継承・発展させていくことがなければ、学問研究に関する努力も無駄になってしまいます。

わたしは、このような状況をなんとか打開したいとは痛切に感じるのですが、なかなか思うようにいきません。しかし、微力ながらできるだけのことはしたいと思っています。

上記の文章では、出来の悪い学生たちだけを批判しているように感じられるかもしれませんが、決してそんなつもりはありません。なぜなら、これらは日本の現代社会の構造を反映する甚だ根の深い問題だからです。次の世代を如何に育てるかについては、教師として年長者として日本の現代社会の構成員である我々個人にも重大な責任があると感じています。


((注)気づかぬうちに、ずいぶん当たり障りのありそうな話を述べてしまいました。上記の文章は一般的な事柄を問題にしているのであり、特定の個人や団体を対象にしているのではありません。まして特定の個人や団体を中傷するつもりは毛頭ありません。もし不適切であると感じられる箇所があるならばお知らせ下さい。訂正・削除しましょう。)